中村倫也 舞台【 ケンジトシ 】考察 と 大千穐楽ぷちレポート / あらすじ と ネタバレあり

中村倫也 出演の舞台『 ケンジトシ 』を東京・大阪ともに数回観劇し、感じたことや考察、宮沢賢治の童話や詩との関わり、法華経の解釈など、自分なりの解釈を記憶に留めるために、記事を記しました。

サンケイホールブリーゼにて行われた大千穐楽 大阪公演の様子などもぷちレポートしています。
みなさまにおかれましても、ケンジトシの回想になる一助になればと思います。



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大千穐楽@大阪 レポート

東京数回と大阪大千穐楽を観劇しました。
会場の大きさがかなり違うので、大阪での公演は、神妙な場面はそのままに、明るい場面はより明るく愉快になっていた印象。
東京公演のほうが、しんみりとずっしりとしていた印象でした。

大千穐楽では、『ケンジトシ』始まって以来、初めてカテコ(カーテンコール)にて、中村倫也さんから発言がありました。

3回目のカテコ登場ではスタンディングオベーションの客席に、ジェスチャーで拍手を止めたあと「座っていただいて」と言って、お客さんを座らせ、なにかすごいお話するのかな〜と思わせておいて「特にしゃべることないんですけど」と天の邪鬼ぶりを発揮(笑)
「大千穐楽終わりました。気をつけて帰ってください。ありがとうございました〜」とのお言葉。

そして4回目のカテコも同じくジェスチャーで座らせたところ、キャストからも「また?笑」って感じで若干突っ込まれながら、中村倫也のひとこと「終わりです!」で、みなさんニコニコしながらはけて行かれました。

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あらすじに沿って考察など

宮沢賢治の世界を映し出す幻灯機

ヴィオラの演奏のなか現れた”コロス”たち
舞台中央前方に置かれた ”幻灯機” に興味を持ち、”草花”のコロスが幻灯機の電源を入れます。

舞台上に映写されたのは、宮沢賢治が短編童話『やまなし』にて「上の方や横の方は、青くくらく鋼のやうに見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。」と描いたような、水底から見えるような世界。
幻灯機はおハナシの最後にも意味を持ってきます。

なにをみているのかな

《なにをみているのかな》
うつむきながら、ぽつぽつと歩いてくるケンジ。
”ひばり”の声に顔をあげるが「春なんて いつくることやら」と小さく呟き、またすぐにうつむき歩き去っていく。

屈託を抱えながら土を見るケンジを、トシは導き救いたいと思っていた。

石原莞爾によるケンジとトシ考察

ケンジが海底の生物を描いたのは一度きり。
厳しく暗い気候の岩手内陸で育ったケンジに、海の広さを教え、明るく聡明な好奇心を吹き込んだのはトシではないか。と語るイシワラ。
トシの24年の人生にケンジの覚醒のすべてがうまっている、と。

雨ニモマケズ

ケンジ2度目の登場。
下を向きぽつぽつと歩くケンジにイシワラが「雨ニモマヌケ」と声をかける。
それを発端にケンジが『雨ニモマケズ』をゆっくりと手帳を手にして読む。

実際の雨ニモマケズもケンジの手帳に書かれており、1931年11月3日、ケンジ自身が花巻で闘病中に執筆されたとされている。
幻灯機で映し出された「南妙法蓮華経」の文字も、実際にケンジが手帳に記した字が写されている。

ヒドリの夏は

「ヒドリの夏。ヒデリ(日照り)ではなくヒドリ(ひとり)だな。ひとりの夏は泣きもしよう。日照りにいちいち泣いていたら農民にはなれない」とイシワラ。

『雨ニモマケズ』の”ヒドリ”部分は、宮沢賢治研究家の中で「日照り」「日取り(日雇いの仕事のこと)」どちらの解釈にするか意見が分かれている部分である。

ケンジとトシの思い出の夏

イシワラは初夏になった岩手を「この夏は、いうなれば ”ケンジとトシの思い出の夏 ”」と言った。
このあと、花巻高等女学校の夏制服を来たトシと、ケンジは、机に向かい合い、トシの学校にタゴールさんが来校された話をする。

劇中ではタゴールさんが来校したのは花巻高等女学校となっているが、実際にタゴールさんがトシの通う学校に来校したのは、日本女子大学校に通っていたときである。
タゴールさん来校後、トシは夏休みに故郷花巻に帰省するが、その夏に花巻でケンジと過ごせたのは、1916年9月9日か10日しかなかったとされ、それを ”思い出の夏” としているのではないか。
この場面でのケンジの声は明るく、快活な様子である。
−参考−
宮澤賢治に影響を与えた妹トシの信仰 : 「絶対者 」を求めて

タゴールさんにトシが朗読した詩

花巻高等女学校に来校されたタゴールさんに、お礼としてケンジの詩を朗読した。とトシが言う。
朗読したのは『青森挽歌』

劇中でトシは「兄さの詩は全部覚えている。とくに青森挽歌は大好きだ」と言うが、この長編の詩は、賢治が妹の死の打撃から立ち直るために、樺太へ旅したときの体験を基にして書いているため、トシが生前にこの詩を知ることはない。
ケンジトシでは、ケンジをトシとイシワラが現実としてみている訳ではなく、トシの眼線から写像しているおハナシ。
そして、ケンジの記憶の中にあるトシとの”思い出=通信”と、ケンジの中に実際にある出来事、トシとの別れを少しずつ受け止めていく姿

法華経とケンジとトシ

来校されたタゴールさんに「青森挽歌朗読のお礼にとタゴールさんからサンスクリット語の妙法蓮華経をいただいた」とケンジにそれをプレゼントするトシ。
法華経を信仰しているケンジは、このプレゼントに興奮する。
ケンジとトシは、この中に書かれている ”如来寿量品” や ”久遠の修行” の重要さと難しさを興奮気味に話す。
いかに ”信仰” というものが2人にとって重要だったかが分かる場面である。

イーハトーブの設計図

ケンジがトシに見せたかったものとして登場する ”イーハトーブの設計図”
厳しい気候の岩手で「煙草の葉のヤニにまみれないと銭を手にできないような暮らしを農民はするべきじゃない」とケンジは力強く語った。

イーハトーブは、賢治の心象世界の中にある理想郷を指す言葉で、宮沢賢治の故郷であり、岩手県の内陸を中心としたものだという見解が定説である。
宮沢賢治の童話や詩にさまざまなかたちで描かれている。

お互いを菩薩といいあう二人

イーハトーブの内容を生き生きと語るケンジ。
その姿を見て「イーハトーヴのことを考えている時、菩薩のようだ」とトシは言うが、それに対しケンジは「うつむいてばかりいると岩手山も見えない。空の下には山も海もある。すべてのものが空の下にあり、空と海の底さえもつながっている、とトシが教えてくれた」と返した。
トシの”学問し、その学問したことを信じる姿”に尊敬の念を抱き、自分が正しいと思っているうちは菩薩ではない、と自戒の念を口にする。

お互いを菩薩だと言うケンジとトシ。
トシは”菩薩の眼差しで世界を見ているケンジ”を尊敬し、ケンジは”自分が見て学んだことを真に信じているトシの姿”を尊敬していたのではないか。

イシワラにとっての法華経と最終戦争論

ケンジとトシが語り合うのを少し離れてみていたイシワラ。
2人と同じく法華経を信仰していたイシワラは、釈尊がピッパラの樹で瞑想したときに訪れた絶望。法華経では菩薩や悟りも方便であること、などを熱弁。
それに対し「それが閣下の最終戦争論ですか?」と問うホサカ。
イシワラは「飛躍しすぎだ」と言うが、戦わずして勝つという理想と、最終戦争が起こらなければ平和は訪れないとう思想の矛盾の中にイシワラも生きている。

彼にとって第一次世界大戦はこの流れの中で必然的に起こったものであり、しかしながらその結果の不徹底のため、やがてそれを上回る世界規模の大戦争が起こると予言したのだ。戦争発達の極限に達するこの決戦戦争をもって戦争がなくなるのであり、それは決して人間の英知などによるものではなく、そもそも人間の持つ闘争心はなくならないと主張している。世界平和という理想を唱えながら、それを実現させていく人間は必ずしも理想的な生き物ではないと捉えているのだ。
 ・・・・・・
同時に、この「最終戦争論」の特徴的なこととして、上述したとおり日蓮宗の教えを継承しているということである。日蓮が「日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起こる。そのときに本化上行が再び世の中に出て来られ、・・・日本の国体を中心とする世界統一が実現する」と予言していることをあげ、自らの最終戦論を裏付けようとしている。そしてその先には世界の真の平和があるとし、そのユートピア実現を理想としている。

石原莞爾の思想 -歴史というダイナミズムの捉え方

わたくしどもは

ケンジが『 わたくしどもは 』のその女と暮らしをイシワラに語ったが、その難解な話の解釈をトシに問うイシワラ。
・花とはなにか?→アドレッセンスである
・アドレッセンスに気づいたケンジは”避難”する
・避難したことで普通の大人と違う青少年期の心を持った観察視点を持ち続けた(菩薩の眼差し)
・心の成長と身体の成長の乖離から避難抵抗したことで、『春と修羅』は次第にフィジカルで不健康なものになった
と、トシは解釈を述べた。

現実に起きたであろう ” 思い出の夏 ” では嬉々としてトシと話していたケンジ。
しかし、実際にトシとの間で交わされなかった日々(雨ニモマケズや、わたくしどもは)では暗鬱とし、うつむきがちで声は暗く小さい。

ケンジより先にこの世を去るトシ

トシは「ケンジの姿に共感し、屈託から救おうとした。陰惨、陰鬱から明るいところへ誘い出そうとした。しかしその思い半ばに、ケンジより先に自分が病んでしまった」

覚有情

トシが生きること、信仰について語る。
「生老病死釈尊は、この世に生まれたことをまず諦めねばならない。最も良い諦め方はなにか。勝たなくとも負けない方法はある。勝たなくともこの世を生き抜く方法はある。
この世がわからぬなら、わかる世にしてみせる。
兄も自分もそれを求めたのだ」

通信は許されているのよ

「通信=思い出、だとしてもそれは重要なことだ」とイシワラは語る。
「思い出=生きること、生き抜くことの執着。
人は思い出されるようなものになろうとして生きているのかもしれない。
その意味において、トシからの通信は許されている」と続ける。

実際に通信はできなくても、思い出としての通信は許されている。
こののちに登場する「月は見えなくてもそこにある。見えなくても見ている」に通ずるのではないか。
そこに存在として見えなくても、意識下で思っていればそれ自体は存在する。
「月は見えなくても、意識の中にあれば見えている」という話は、タゴールとアインシュタインが対話したときに交わされた内容であり、法華経の教えやタゴールに影響されたケンジとトシだからこその台詞ではないか。
−参考−
アインシュタインとタゴールの対話記録

永訣の朝

コロスたちによる『永訣の朝』朗読が始まる。
きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
あめゆじゆとてちてけんじや・・・

詩集の目次では、『永訣の朝』に 1922年 11月27日という日付が付されています。この日付はトシが亡くなった日。
トシが亡くなる朝に、ケンジにみぞれを取ってきてとお願いしたときの心象を記してあります。

雪山を行くふたり

「早ぐ峠越えるべ。雪降って来るぢょ。さあトシ、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平らだ」ケンジはトシを励ましながら雪の中を歩く。
やがて、トシはケンジの胸の中で静かに息を引き取る。

宮沢賢治の童話『ひかりの素足』になぞらえた、二人の兄妹(童話内では兄弟)が雪道を行く場面。
舞台内では、ここで、ケンジはトシの”死”を初めて受け止めたのではないか。

月は見えなくても、そこにある。

雪山で息を引き取ったトシ。
スクッと立ち上がり、ケンジに「月が見えるか?」と問います。
雪の中「見えない」と答えるケンジ。
「見えなくても、月はそこにある。それがわたしたちの目印だ」とトシ。
「幾度と森の中で迷っても菩薩の眼差しで見えないものを見て、道を見つけるのだ。通信は許されているのよ」とケンジに明るく呼びかけるトシ。
「トシー・・・!!!」と叫ぶケンジ。

月は見えなくてもそこにある。と一筋の光を示すようにケンジに明るく語るトシ。
”菩薩の眼差し” で見えないものを見て、”やまなし” はじめ童話や詩を書いていたケンジに、もともと備わっている感覚を呼び覚ますようである。
最後に「通信は許されているのよ」とケンジを元気づけるように言ったトシは、イシワラが語ったように「通信=思い出」として、ケンジとトシは見えなくても繋がっている、と伝えたかったのではないだろうか。

トシへ。

トシへ。
と、ひとりで”死”を通っていくトシへ、ケンジは語りかける。
涙を噛み締め流しながら、言葉を絞り出し紡ぐケンジ。

幻灯機で舞台上に写し出されたのは、テパーンタールの砂漠に登るまん丸の赤い月。
”テパーンタールの砂漠”はケンジが描いた理想郷 ”イーハトーヴ” の位置を示す記述に登場する砂漠。
理想郷を通り、トシの死の先を祈るケンジの心を映し出しているようである。

ワルツを踊るふたり

涙を流し立ち尽くすケンジに、「凍しみ雪しんこ、堅雪かんこ。ほら!」とワルツに明るく誘うトシ。
涙を拭いながら、「キック、キック、トントン」とそれに応え踊るケンジ。

ワルツに誘い、明るく努めるトシは、ケンジを陰惨、陰鬱から明るいところへ誘い出そうとしたトシの姿そのものだったように思う。

クラムボンはわらったよ

コロスの朗読。
『クラムボンはわらったよ。』『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』『クラムボンは跳はねてわらったよ。』『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』・・・

マリヴロンと少女

「素敵な言葉を言って終わりに出来たら」というトシ。
”素敵な言葉”について「マリヴロンが少女に伝え、諭したような言葉」とケンジは言い、
穏やかに暖かさのある声色で『マリヴロンと少女』の一節を続ける。
「あなたは立派なお仕事をなさるでしょう。
それは、わたしなどより遥かにたかい仕事です。
ただしく清く働く人は、ひとつの大きな芸術を時間の後ろにつくるのです
ごらんなさい、向こうの青い空の中を一羽のこうがとんでいきます
鳥は、うしろにみな、そのあとをもつのです
同じように、私共は皆、そのあとに、ひとつの世界をつくってきます
それがあらゆる人々の、いちばんたかい芸術です。」

清々しさのある声で、ゆっくりと前を向き『マリヴロンと少女』を語るケンジ。
童話『マリヴロンと少女』の話中で、最後にマリヴロンと少女は別れますが、その時マリヴロンは「私がそこにいなくても、少女が私のことを考えているとそこに居ます。まことの光のなかに一緒に住んで一緒に進む人々は、いつでも一緒にいる(要約)」と言います。
これは、前述に出てきた”月は見えなくてもそこにある”に通ずるのではないかと思います。
トシが人としてそこに居なくても、ケンジがトシを思っている限り、まことの光をともにしたトシは、見えなくてもそこにいる。

私の幻燈はこれでおしまいであります

みなで『花巻農学校 精神歌』を歌い終わり。
「私の幻燈はこれでおしまいであります」と客席に向かいトシが言う。
そして、コロスの草花が、幻灯機の電源を切ります。

「私の幻燈はこれでおしまいであります」というのは、宮沢賢治の『やまなし』の結びに書かれている言葉です。
『やまなし』の始まりの言葉は「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です」です。
幻灯機で舞台上に始めと終わりに写し出されたのは、ケンジが菩薩の眼差しで見たような、青く泡のようなつぶつぶ。
【ケンジトシ】はやまなしで始まりやまなしで終わる。という思いです。



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この記事を書いた人

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